EXHIBITION
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アミタマリ写真展「silent flowers」
2014. 3. 12 Wed. - 2014. 3. 25 Tue.
THE MICHELLE GUN ELEPHANT、Perfume、RIP SLYMEなど、おもに著名ミュージシャンの撮影で知られるアミタマリ。 CDジャケットや写真集、雑誌などで発表される彼女の写真は、アーティストたちやファンの心を強く捉えてきました。 写真家の道へとアミタ氏の背を押したのは14年前、自宅近所でふとシャッターを押したテッポウユリの姿でした。 その後もポラロイドで花のシリーズを撮影するなど、花の姿と対峙することは彼女のライフワークになっています。 本展は、彼女が近年撮影した花のシリーズを披露するものです。 切り花をセットアップするのではなく、咲く場所でライティングもせずに撮影。 「光や風、滴の動きが起こす神々しい瞬間」に向き合い、花の存在感を絵画的に昇華させました。 会場ではネガ・ポジフィルムで撮影したシルバーゼラチンプリント作品シリーズを展示・販売する他、作品集やスカーフ、iPhoneケースなどの関連商品も販売します。 アミタマリ 写真家 1973 年、山口県生まれ、専修大学文学部卒。 モデル活動を経て写真家・野村浩司氏に師事。 2001 年よりフリーランスとして活動を始める。 THE MICHELLE GUN ELEPHANT、CHARA、RIPSLYME、サザンオールスターズ、Perfume、Rake などのCD ジャケットやポートレート、その他ファッション誌、広告写真なども数多く手がけている。 写真を担当した書籍に、楠部真也×tokie「LOVE&HATE」(A.M.I)、木村カエラ写真集「Cheeky」(ロッキング・オン)、早乙女太一「千年の祈り」(朝日新聞出版)などがある。 写真を始めたばかりの頃、師匠から借りたばかりの35mmカメラで、近所に咲くテッポウユリを何気なく撮ったその写真は私の原点となりました。 それから気が向いた時に花にカメラを向けるようになり、近所の花たちや、時には自宅の花瓶に生けた花をポラロイドでコラージュしたり、特に誰に見せるわけでもなく花を撮るということは、自然と私のライフワークのようなものとなっていきました。 2001年に写真家としてデビューし、夢中で写真と向き合っていましたが、出産という経験は、それまでの五感を覆す、まるで自分もリセットされたかのような体験となりました。 息子が生まれたばかりの頃、それまで家で一日を過ごすということをほとんどしなかった私は、世間から取り残されていくような大きな不安を抱えるのと同時に、部屋に射す光や美しい影、季節ごとに変化する太陽の角度を初めて感じ取れる、ゆったりとした時間をすごし、しかし24時間はもう私だけのものではなく、写真を撮るという行為は今までとは違う特別なこととなりました。 そして時代は変わり、私が好きなフィルムや印画紙は次々と生産中止になり、当たり前だと思っていたモノや状況は変化し、なくなっていくのだと気づいたとき、あのユリを撮ったころのようにもう一度シンプルな気持ちで写真と向き合いたい。そんな思いからこのsilent flowersは始まりました。 5月、6月はとても気が焦る季節です。 新緑が輝き、一斉に花達は咲き始める。 保管していた古いフィルムと共に一人で季節の花を追い求め、近所の教会や、幼少時代を過ごした土地、ときには高速を走らせ、一日がかりのドライブとなった撮影の日々は、私にとってとても贅沢で貴重な時間でした。 季節に咲く花を見つけ、光や風、滴がおこす神々しい瞬間を祈るような気持ちで少しでも多くの時間を収めたい一心でその姿を焼きつけていく。 此処でしかできないこと、今じゃないといけないとき。それを感じ取り表すことが私の運命であり、喜びであると思います。 アミタマリ 金子義則ロジック外の美を信認させる花たち「花」がターニングポイントを作ったアーティストは数多い。 エイズで余命少なき日々の心境を朽ちていく花に重ねた深奥な美が人々の心を打ったロバート・メイプルソープの「flowers」のように、心象風景を託せる詩として、また同じ境遇を共に歩んでくれる伴走者として、花は最適のモチーフであるからに違いない。 さて、音楽誌やカルチャー誌などで活躍する写真家、アミタマリ。 ミュージシャンのライブアクトからバックステージを追ったものも含め、タフでナイーブなドキュメンタリータッチの写真が持ち味だ。 ファッションモデルのキャリアもある彼女は、被写体の体躯へかすかに表出したニュアンス、「気」のようなものに敏感で、ライブ感のある写真集をいくつか残している。彼女には、誰に見せるとも決めていない日記のような作品シリーズがあった。 それが「花」。 写真を志したばかりの時、原点になった写真は、何気なく近所で撮ったテッポウユリの花だったという。 それ以来人生の折々に花とカメラ越しに対面してはシャッターを押してきた。 スタジオや気取った部屋に花を持ち込むのではなく、咲いている場所まで遠出してゆっくりと対話する。 その中で、花弁に自然光や水滴が巻き起こす小さなドラマや、由来の知れないオーラを間近に追ってきた中で、自分のその都度のライフステージをも内省してきたのである。 しかもデジタルではない。 お気に入りの筆で好きな紙に文を綴るように、フィルムや印画紙にもこだわってきた。 保管して古くなったフィルムの劣化やカビなどもまるで絵画技法のようにして活かしている。 写し絵にされているのは時間だ。 一瞬のシャッター、花の短い命、フィルムの寿命、自分のライフサイクル。 短・中・長、いくつもの時間の流れが重なったり離れたりして図像を造り上げている。 それらを見るのに、様々な花の種類など分からなくてもいい。 すでに、たかが花ではないからだ。 写真の暗くつぶれたような部分にも意味がある。 そんな、ロジックでは説明できない美学をも信認させ、写真フェチを少し震わせてくれる写真展である。